沖縄伝統空手の1千年(4)

第3章 秘伝《手》の公開、国際化、競技化

 琉球の伝統武術・空手のルーツを中国武術の伝来に求めるか、それとも源泉は、古来の《てぃ》である、と承認するか。前章まで、歴史を行きつ、戻りつしつつ見てきた。現代は、今や世界の空手、と称されるまでに普及し拡張した空手が原点回帰=沖縄伝統空手への回帰志向を加速する時代である。しかし、眼前の状況は、2020年の東京五輪に向けて、世界空手道連盟(WKF)を盟主とする競技空手が「原点」を呑み込むか、と危惧されるほど攻勢を激しくしている。

 改めて指摘するに及ばないが、沖縄固有の武術《てぃ》が、世界に広がったのは、それが秘伝のベールを脱ぎ、公開武術となり、様々な変容を遂げながら国際社会に受け入れられてきたからである。しかし、改造され競技空手化された空手は沖縄伝統空手とは別物であるとの指摘が多くあることも否定できない。本章では、その歴史的な変遷の姿を捉えていくこと、としたい。

 最初に、簡潔な形で図示しておこう。
 沖縄秘伝武術《手=てぃ》⇒《てぃ》⇒《唐手=とうでぃ》の公開⇒《からて》の国際化⇒原点回帰・・・これを概ね空手変遷の流れ、として把握しよう。

一 ベールを脱ぐ“秘伝”《てぃ》⇒公開の流れ

 秘伝の《手》が、公開され、大衆化、国際化を辿るのは、いつ頃からか。つまり、ベールを脱いで、徐々に“使い手”が増えていき、師弟関係が公然とではないが、一定の形を縦横に繋げて、ついには公の場に登場する。それが、中国武術の伝来と深い繋がりの在ることは、既に第1章3)公相君って何?からも掴み取れることである。

冊封使武官が衆目の場で対決

 繰り返しになるが、公相君は、1756年に冊封使付として来琉した武官に対する尊敬を込めた美称であり、名前ではない。この武官は、痩身の小男だが、衆目の場で大力の男と勝負をし、打ち負かしたことが「大島筆記」に出ている。このことは、当時、武術が首里士族の社会生活の表場面に現れていたことを物語っている。彼が使った技は<武備志載スル組合術の手>とされ、まさしく伝来の中国拳法であった。中国拳法は既に、13,4世紀ごろには、進貢交易や?人36姓の移住に伴って伝来し琉球の<てぃ>と並存しており、随って両者は相俟って、このころから表場面にしばしば登場していたであろうと捉えることも可能である。

公開の立役者は<唐手佐久川寛賀>?

 さらに、公開の大きな切っ掛けとなったのは、琉球王家の護衛官・佐久川親雲上寛賀が、朝貢使者の一員として中国に渡り、中国武術を持ち帰って流行らしたことである。彼は尚敬王(1713~1751)尚穆王(1752~1794)尚温王(1795~1802)尚?王(1804~1824)の王家4代に亘って生を全うし82歳の長寿で没したが、唐武術を持ち帰ったのは、尚穆王の後期、1770年前後のことと云われている。それ以前、琉球に《唐手=とぅでぃ》という言葉はなく、佐久川寛賀の唐手(とうて)を世間が見て、彼は唐手佐久川として有名になった。唐手は、その結果として<手>と呼称を分け、認知されるようになった。彼は、《てぃ》の達人だったから、それを改竄したわけではなく、自らの《てぃ》を《とうでぃ》に替えたわけでもない。ただ、持ち帰って伝えただけであり、その呼称も彼が付けたわけではない。既に、このころは、先進武術<とうでぃ>に対して、世間の関心が向けられつつあり、古来の《てぃ》と区別する必要があった。そこで《とうでぃ》という名称は、知らぬ間に世間から、そう呼ばれるようになった、ということでしかない。そうこうして話題が広まっていき、秘伝のベールが少し剥れた。寛賀は、その最初の立役者であった、と言えるかも知れない。

御茶屋御殿内での公式な公開演武

 冊封使歓迎の公式な催しとして空手・古武術の演武が行われたのは、1867年3月24日のことである。先年の3月、最後の冊封使趙新が清国から来琉し滞在していた。これをもてなす催しとして、首里崎山の御茶屋御殿で祝宴が開かれた。「三六九学芸の事」「武術」「打花鼓」等が演じられ、その記録の中に「武芸十項目」が織り込まれている。公式の場に琉球武術が華々しく登場し、その全容が知られた瞬間であった。

 唐の手と琉球の手の関係、公式な公開の流れを知るうえで重要な資料、プログラム「武芸十項目」を記しておく。

  • 籐牌   真栄里筑登之親雲上
  • 鉄尺並棒 真栄里、新垣通事両親雲上
  • 十三歩  新垣通事親雲上
  • 棒並唐手 真栄里、新垣両親雲上
  • チシャウキン  新垣通親雲上
  • 籐牌並棒    富村筑登之親、新垣
  • 鉄尺   真栄里筑登之親雲上
  • 交手   真栄里、新垣両親雲上
  • 車棒   池宮城親雲上秀才
  • 壱百零八歩  富村筑登之親雲上

東恩納寛量、道場を開き門弟募る

 清朝末期、琉球王朝末期に入り、そこから、明治維新、琉球処分と世の中が激動していくと、沖縄を離れて渡中する者が相次ぐ。歴史は、彼らを「脱清人」と呼んでいる。その中に、那覇手の祖と云われた東恩納寛量がいた。言うまでもないが、彼の目的は武術の修行に他ならない。歴史は、東恩納の中国修行について、諸説錯綜しておりその中から真説を見分けるのも容易ではない。

 前述の「空手・古武道基本調査報告書」は23歳で福州に渡り、苦節十数年の修行の後1887~8年ごろ沖縄に帰った、とする。「剛柔流空手道史」(東恩納盛男著)は、16~17歳で渡中し福州で14年間リュウリュウコウについて修行した。帰ったのは、1881年~2年ごろである、としている。他に、1872年に福州へ渡り、5年の修行の後、1877年に帰国、さらにその1年後に<唐手道場>を開いた、と記す。

 また、東恩納が持ち帰った伝承型が4種類と少ない、という点に着目して、彼の中国修行は、長期に及ぶものではない、との見方や、逆に老齢になるまで福州で修行した、という説など様々ある。

 その中で3年説を採るのが糸州安恒、知花朝信、比嘉佑直、宮城長順、東恩納寛量の孫と云われる人物。10数年説は長嶺将真、15年説は岩井琥珀で、《てぃ》の起源論に意欲的な論考を展開する野原耕栄氏も同様な説を採っている。糸州、知花、比嘉の場合は、知花が糸洲から聞いた話として比嘉に伝えた流れである。宮城の説は、佐久田繁の著作「近世琉球奇譚・空手修行物語」に宮城に取材した話として紹介されている。

 以上の説に共通な点は、東恩納寛量が実際に中国福州で何年修行したかではなく、福州に渡って帰国するまでのトータルな年限を述べただけで、何ら根拠が示されていないところである。

 これに対して、中国武術と空手に関る研究で知られる剛柔流・泊手空手道協会会長の渡嘉敷唯賢氏は、中国福建師範大学歴史研究グループの資料を発掘し、寛量に関する記述のあることを見つけ出し、有力な説を展開している。この資料は「清代中琉関係襠案選編」のタイトルを付した報告書。この中に「東恩納は1877年9月に漂流民10名と共に福州を発って帰国した」と記されている。これを基礎にして算出した修行年数が1年4カ月となる。しかし、実際に彼が那覇に戻ったのは1879年11月のことだから、2年2カ月の不明な期間がある。これについても渡嘉敷氏は、「脱清人」だった寛量の特殊事情を挙げて説明、台湾・宮古・久米島・粟国と、島伝いの遠回りで長い年月をかけ、慎重に警戒をしながら帰国したからだとしている。ここには幾つものナゾが潜んでおり、興味を引く展開だ。

 こうして彼は無事、那覇に辿りつき、家業に復帰する。その後、何年かの雌伏期間を経て、1889年《唐手道場》を開く。唐帰りの達人の噂が広がり、指導を求める声が多かったのだ。この年、彼は義村御殿の二男・朝義(この時23歳)にサンチンとペッチューリンを教えた記録がある。

 これらの事実は全面的な公開を意味する。彼は弟子募集を行い、前後して望まれれば他の機会にも《手》と《唐手》を指導し、学校でも教えた。《手》は公開から《大衆化》へ、と弾みをつけていくことになる。しかし、寛量の道場は期待するように弟子が集まることはなかったようで、武術で生活できる時代が来るまでには、まだ早かった。近隣、知人の師弟が出入りする程度で、晩年を迎えて漸く自らの武術を伝授するに相応しい、優れた二人の弟子を持つに至る。

 宮城長順と許田重発である。ここまで10年を費やした。廃藩置県後の沖縄で人々は、いまだ落ち着かず生活にゆとりのない事情があった。

 宮城は、師の期待にたがわず、一筋に鍛錬・心錬に打ち込んだのみならず、自力で1年以上も福州に渡って、師の伝承した《中国武術》の調査・研究を行う、など、その生を賭して研鑽に励んでいる。さらに、<那覇手・唐手>の地域普及に努め、日本へ紹介し目覚ましい発展へ導いたのも宮城の働きである。

 彼は、寛量を始祖とする那覇手を受け継ぎ、琉球伝統空手3大流派の一つ、剛柔流を興して流祖となった。流派の誕生は、宮城を以って歴史が始まる。

 また、福州で13年虎拳を修行した上地完文は1910年、沖縄に帰ったが、再度、沖縄を去って和歌山に渡り、1924年に道場を開いた。こうして凡そ一世紀の間に、《手》は全面的に公開されていく。

 やがて時代は大きく下り、《手》は首里手、那覇手、泊手の3つの流派を形成していくが、それらは那覇手が宮城長順によって剛柔流と命名されたことを導水として、小・少林流、上地流の三大流となる。これが沖縄伝統空手の源流を成し今日に至ったのである。

二 学校体育に導入された《唐手・手》

 道場の開設と流派の登場は更に《手》の大衆化に拍車をかけていき、ほどなくして《手》は学校体育の科目に採択される。《手》が教育の現場に登場したことは、新時代を画する歴史的な出来事であった。これには糸洲安恒の果たした業績が大きい。彼は要望書「空手十箇条」を書き、沖縄県の学務課に提出し、その必要性、教育に果たす効果の大なることを訴えた。それは、弟子たちへの教え「糸洲十訓」として、明治41年(1908)に公示された。

 これに先立ち、糸洲は1901年(明治34年)首里尋常小学校で《手》を体操として体育科に組み入れさせている。「ピンアン」の型を新しく工夫して習いやすくした。大衆化への積極的かつ創造的な対応は、空手の社会的な評価を一気に高めた。ここから学校空手は、県下の中学校や師範学校へ一挙的に広がり、さらには、公的な行事や場所での団体演武、個人演武がプログラムで頻繁になっていく。

 船越義珍も1905~6年(明治39年)ごろから、有志を募って学校巡回演武や地域公演会を行い、いわば、キャラバン的なPR活動を行っており、大衆化はいよいよ多彩な盛り上がりを呈していった、とみられる。

 このころ那覇市の大運動会で空手の集団演武が行われイベントの目玉プログラムになっていた。義珍は泊小学校の高学年に特訓を行い、ここで披露し大評判になった、という。

 泊手の伝承者渡嘉敷唯賢氏によると、彼のデモンストレーションメンバーの一人に泊手の達人仲宗根カーカーこと、若き日の仲宗根清侑がいた。仲宗根は、太い鉄線を引きちぎるスゴ技の持ち主で評判だった。この地域キャラバンでも、鉄線(8番線)を胴に巻きつけ、気合いもろとも切り飛ばす実演で空手の凄さを強烈にアピ-ルした。これでキャラバンはいよいよ盛り上がり、大きな成果を収めたのだ、という。

【註1】
 糸洲安恒「空手十箇条」前文で「空手は儒仏道より出候ものに非ず。・・・支那より
 伝来したるものにして、そのまま保存し潤色を加ふ可からざるを要とす」と謳い、体育のみならず「公に報ずるもの」で私的な争いで使ってはならない、人を傷つけてはならない、と戒めている。また、当時の富国強兵に染まる社会情勢、国の政治を背景として、体格強健な兵士を育てることにも貢献できる、とするなど、空手の公開普及の一方で軍国思想を反映した内容になっている。
 ちなみに、糸洲は学務課に呼称の錯綜を整理統一することを提案、「唐手=カラテ」と定められた。これによって《手》が《唐手》のこと指すものという誤解の原因を作ったのは糸洲の大きな失敗だ、と指摘されている。
【註2】
《空手の学校体育への導入》明治34年(1901.4)首里尋常小学校で「ピンアン」を指導、明治38年(1905.4)県立第1中学校、那覇市立商業学校、県立師範学校に空手部、さらに県立農林学校、県立工業学校、県立水産学校に空手部が設けられた。

三 空手の日本普及に殉じた船越義珍

《手》は、日本に伝播して、瞬く間に全国を席捲するか、と思うほど、猛烈な勢いで広がった。大正5年(1916)船越義珍が、京都武徳殿で演武を披露したのが突破口となった。各地の伝統技芸が集められた、御大典記念祝賀に沖縄を代表して船越と古武術の又吉眞光が招かれた。船越は公相君、又吉はトゥンフワーを演武した。これが、沖縄武術の日本における初登場と云われている。

不評を乗り越え孤軍奮闘

 船越は、その6年後、大正11年(1922)、再び日本に渡る。この時は、文部省が主催する第1回体育展覧会が東京御茶ノ水で開かれ、船越は公相君を演武し解説した。琉球の不思議な武術に東都の武術家や人々は興味を持ったが、日本の武術が敵を倒す実戦の形で披露されたのに比べて、船越の演武は、型とその解説だけだったこともあって、迫力に欠ける印象を与え、必ずしも成功とは言い難く、船越も少々気落ちした。

 このことを心配した在京の有力者たちが、挽回を期すために奔走した。伊江朝助男爵や東京高等師範の金城三郎教授らが、『琉球の誇る《手》の優れた術技、魅力をヤマトの武道界に知らしめなければない、展覧会の結果が、芳しくなかっただけに、あのままでは評価を下げっ放しになる』というので、考えだした企画が、加納治五郎率いる講道館で本格的な公開演武会を開くことであった。直ちに加納に対して働きかけ、加納は承諾しただけでなく全面的な支援を約束した。これは見事に当たった。伊江男爵らのコネが利いた。

 参加者も社会的な影響力の大きい人たちがそろった。マーケティングの感覚で云えば、宣伝効果が最大限となる仕掛けであった。加納を初め、柔道界の高段者、警察関係、新聞記者や関係者ら200名を越す多数の観客で200畳を越す講道館は満場となり熱気に満ちた。この時の演武は、船越が公相君、同伴の儀間真謹がナイハンチを行った。加納は、立ち上がって、船越と相対し逐一、攻防の技を問い、極めの意味を質問するなど、強い関心を示した。

「日本空手道の父」と呼ばれる

 この成功が、船越を奮い立たせ、ヤマトでの空手普及に精力を傾注する決意をさせた。船越は残った。そして、ついに沖縄へ帰ることなく、東京を第2のステージとして《手》の普及に心血を注ぎ、生涯を捧げること、となる。

 彼は、最初、沖縄から留学する学生たちの寮「明正塾」(文京区水道橋)に留まって学生たちに指導を行う(1922年8月)。そこを拠点にして、大学関係の空手指導を行った。2年後には、慶応義塾大学に空手部が設置され、早大、東大、拓大、法大、中央大、学習院大、明大、日大、日医大、体育専門学校、陸軍戸山学校、日本法曹会、警視庁など、次々と大学や官庁関係で空手の師範となり、東都の隅々に《手》を拡げていった。

 船越の生き様は、文字通り空手に殉ずるものだった、と言える。船越は「日本空手道の父」として空手史に輝く存在となり、彼の《手》は、さらに世界に飛翔した。古今を通して普く空手人の尊崇を集めるカリスマである。

 船越は、術技の普及だけでなく、その理論と思想を著書や論考に残した。後進にとって学べども汲み尽せぬ貴重な遺産である。よく知られる「空手二十箇条」を初め、最古の空手著書と云われる「琉球拳法 唐手」(1922年)「鍛錬護身唐手術」(1925年)「空手道教範」(1935年)「空手入門」(1943)「空手道一路」(1956年)は、空手を志すものにとって座右の書である。

 今日、船越の系派に連なる道場は、世界に凡そ900を数え、松濤館流に基盤を置く日本空手道協会系の空手が普及する国は、120カ国に迫るところとなっている。《唐手術》と彼が呼んだ沖縄の《手》は、まさしくこの一世紀足らずの間で、本格的な国際化の時代を疾走してきたのである。

四 国際化・競技化で変容・変質した空手

 空手の日本普及は、国際化への序章となった。戦後の荒廃を乗り越えて進もうとする人びとの生き抜く力であった。
戦争に敗れたことが、空手をメジャーにする契機になった、と見るのは穿った見方、と謗られるかもしれないが、戦後、沖縄に駐留した米軍の統治手法として、伝統文化を兵士たちに習わせた、ということは事実だ。

駐留米軍兵士が国際化の先駆け

 1950年代に入って、沖縄占領米軍は全国に先駆けて空手を統治政策に結び付け融和を図ろうとした。50年代後半ごろからは基地の体育施設で沖縄の空手家による指導がおこなわれたが、これは訓練を兼ねた彼らの異文化に対する修養プログラムであった。同時に市中の道場でも米軍兵士らの稽古姿が目立ってきた。《KARATE JIMU》の看板を掲げて、受け入れに積極的な道場が増えた。こうして、沖縄伝統空手に親しんだ米兵たちは、除隊、帰国後、米国各地で活動を始め、これが沖縄空手の米国普及の芽吹きとなったのである。

   

 この事情は、日本においても、ほぼ同様であったが富名腰や本部朝基の流れを主流とした戦後初期の日本空手がどのような国際化の方向を辿ったのかは、占領米軍の公式な派遣事業として始まった点が違うところだ。

米国空軍に招かれた日本空手

 1953年6月、米国空軍は日本の柔道家と空手家、計9人を本国に招き巡回セミナーを行った。GHQは、それまでの武道規制令を解除し、剣道を除いて文化交流による戦後日本の民心融和に舵を切ったのである。関係団体は、《日本武道親米使節団》を結成する。この時の団長は、小谷澄之。団員は、柔道が6名、空手3名。慶大出身の木幡功、早大出身渡部俊夫、拓大出身西山英俊という顔ぶれ。いずれも富名腰義珍の流れを汲む若いエリート空手家が選ばれている。

  

 これが所謂、日本から国際化へ向かった空手普及の第一陣である。彼らは米国15州、1区、1島を巡って3か月間、空手の公開演武、指導を行った。このキャラバンは大きな成果を修め、松濤館はじめ日本の流派は競って、大学出の指導員を次々と海外各地へ派遣した。

 その2年後、1955年(昭和30年)3月には、大島功(早稲田・アメリカ松濤館館長)がロサンジェルスへ、5月高松浩二(東京農大出身)ブラジル、翌1956年原田満ブラジル、と続く。1950年代に海外へ渡った若いリーダーたちは、この他、カナダ鶴岡正巳、米国・阿砂利義明・金沢弘和・岡崎照幸・三上孝之、フランス加瀬泰司・望月稔、イタリア三浦勝巳・高橋勝太郎、アルゼンチ土屋秀男、メキシコ村田誠良、イギリス鈴木辰夫・鈴木明治、ドイツ長井昭夫、フィリピン佐々木邦男、等々がいる。まさしく新進気鋭の人材が、競い合って空手未踏の異国を目指したのである。

 沖縄と違って、キャリアの空手家たちは、大学式の実技や理論をミッチリと仕込まれており、将来の指導者として嘱望される若手ばかりだったから、海外での活動は目覚ましいものがあり、日本化された空手が世界各地に広まっていくのに、それ程の期間を要しなかったということがうなずけよう。ただ、《てぃ・沖縄伝統空手》の型や技に熟達していたわけではなく、それが後々、型の変容をもたらす一つの要因になった、という事実は否定できない。

超VIP待遇の沖縄空手巨匠たち

 一方、この時代、沖縄では伝統空手のトップ指導者たちが、帰国した元兵士の弟子に招かれ、相次いで渡米している。言葉や風俗習慣の違いに悩まされながら、異国での初めての公開指導は、大変な困難を強いられたと思われる。その半面、権威ある師匠たちを迎える現地の弟子たちは、一様に師匠を超VIP扱いで遇し、ルーツに対する尊崇の思いと礼を忘れなかった。その流派的絆は今も変わることなく続いている。

 こうして、沖縄からの海外普及は、当初、アメリカへのキャラバンが主流だったと思われるが、さらに加速していくのは1960年代以降とされ、その内、媒介的にフランスやイギリスにも足を延ばして行くようになる。また、海外移民の多い沖縄は、当時から南米やその他の地域に先駆けて渡った空手家もいたと考えられている。

 1970年代に入ると、各国に支部組織が設立されるようになり、沖縄空手の国際な流派ネットワークが少しずつ立ち上がり、現在では、空手と古武道の主流派が、殆ど世界にネットワークを築くまでになった。欧米を中心にインドや中東、アジアまで伸びる最大のネットワークを構築した沖縄空手道小林流小林舘協会(仲里周五郎宗家、仲里稔会長)と国際沖縄少林流聖武館空手道協会(宗家・会長島袋善保)、米国を中心に、上地流系沖縄空手道協会(仲程力会長)一心流伝統空手協会(会長上地強)、欧米、アフリカ・豪州などは剛柔流沖縄館空手道協会(仲本喜一会長)、カナダ・剛泊会(渡嘉敷唯賢会長)、インド・英仏に沖縄空手剛柔流拳法会(久場良男会長)、豪州に全沖縄少林流空手道協会(仲里栄昭会長)古武道では、北米に琉棍会(伊波光太郎会長)沖縄硬軟流(糸数盛昌会長)の各琉会派が支部を置き、さらに巡回セミナーなどを実施して、ここ10数年、著しい伸長を見せている。

主な国際空手組織の設立

 空手の国際化は今日、頂点に到達し、更なる再編の段階に入ったと考えられる。流派網によって伝播した空手は、幾つかの巨大な国際組織と群小の独立団体に分かれ、2020オリンピックに向けて、新たな再編へ向かっている。ただ、それがオリンピックの為だけの、ルールや活動形態の統一化に終わるのか、組織の具体的な統合や解消まで進むのかは、見えにくい。組織にはそれぞれ、空手のスタイルがあり、伝統を形づくっている。伝統空手においては、なおさら、その流儀、由来がゆるがせにできない生命線である。であればルール至上主義の競技空手は統合されて不思議はないが、沖縄伝統空手は未来永劫に独立の孤高を守り続け、その普遍性を根源的なエネルギーとして発展を目指すことになろうと思われる。

 世界の空手は、大きく分けて競技空手と沖縄伝統空手、さらにフルコンタクト系に分けられる。競技空手の主要団体は、世界空手連盟、松濤館流系空手の国際団体、国際空手道連盟極真会館が代表的な組織となる。おおざっぱにみて、これが、空手国際化の現代の姿である。

 世界空手連盟(WKF)は、1961年に設立、1993年に世界空手連合(WUKO)から改称された。本部は、マドリードにある。会長は、アントニオ・エスピノサ。187カ国が加盟しているとされる競技空手の本山である。

 松濤館空手は、日本空手協会が母体となって設立された。国際松濤館空手連盟(1978年・創設者金沢弘和)加盟国108カ国と世界松濤館空手道連盟(1990年・設立者上柳毅明・90カ国加盟)の2団体が主力組織。単一流派の団体としては世界最大である。競技空手を趣旨とする組織ではない、とされるが、日本空手協会は、競技団体である全日本空手連盟にも加盟している。

 国際空手道連盟極真館は、1964年に設立されたフルコンタクト空手の最大組織。設立者は大山倍達。新極真、芦原極真館、極真館などに分かれる。

改竄(かいざん)・変質を招いた国際化・競技化

 沖縄を発した空手が、日本にわって競技・スポーツ化され、世界に普及する中で一段とスポーツ競技ジャンルとしての専一化が進んだ。ルールがすべてとなり、WKFは毎年のようにルールを変更して、《日本空手》の権威を減殺することに腐心してきた。初期において主導したのはフランス、現在はスペインが競技空手の本山となる。欧米は、「今や日本から学ぶ者は何もない」と豪語し、2015年には、「指定型を廃止して伝統空手に門戸開く」方針を打ち出した。それで「空手は一つ、世界は一つ」というスローガンを2020五輪に向けて掲げ、大上段から檄を飛ばしている。これは何を意味するか。ルールを出発点にして、いかなることでも自由勝手に出来るという傲慢強硬なWKFの考えを露骨に表しているのである。「WKFの大会はどんな空手の型でも出場できることになった」と報道されたが、沖縄伝統空手は、これを歓迎するだろうか。

 一方、JKFは、過去、2度に亘って「指定型」の設定を大々的に行ってきた。むろん小さな手直しは、他にも限りなくなされている。この2回の設定では、それぞれ「八つの形」を指定したが、沖縄空手に由来する《名称の形》とヤマトで《改称された形》の合計16種類が指定された。問題は、沖縄の形を忠実に導入して指定されたものではない、という点にある。JKFが採った方式は、「沖縄空手の型」をベースにした「創作した形」つまり「模倣改作の形」でしかない。こうして、国際化、競技化による影響は、型を歪め、伝統性を毀損する、深刻な問題を齎していることを看過すべきではないと考える。むろん、これによって沖縄伝統空手そのものが、変質しているということではない。模倣空手によって世界の版図が覆われていく状況があり、一部分の人々にとっては、沖縄伝統空手とJKF及びWKF競技空手の見分けが出来なくなっている実態もある。沖縄伝統空手の立ち位置において、それらのことを冷徹に見据えることが必要なのである。

 国際化に伴う、新たなもう一つの動きもある。WKFが主催する《プレミア空手》なる世界大会が、2014年から沖縄で毎年開催されている。沖縄一括交付金2000万円が使われるといわれている。空手の聖地・沖縄で競技空手の大会が定期化されることを、伝統空手の道場や団体は、どう見るか。

 8月3日、IOCは、空手を含む野球、レスリングなどの追加五種目を東京五輪から正式競技種目とすることを決定した。翌日のメディアは、それ一色に塗り潰され、とくに沖縄は空手号外まで発行される騒ぎとなった。発祥の地であり、大きな誇りとしていい。しかし、同時に、本物の沖縄伝統空手が競技化の海に埋没させられないように十全の対処が必要であろう。

 まずは空手界がこの機をどう生かすか、真剣に対応策を組み立て、行政も県民も偏りのないよう、伝統空手が再び置き去りにされないよう確り目配りをしたい。伝統空手と競技空手は両輪である、というようにしばしば喩えられる。しかし、半径の等しい車輪ならまだしも、過去も現在も片方の車輪は半径が極端に短い。この状態が続けば、沖縄は空手発祥の地として、影の薄い存在となっていくのではないか。両輪論の危うさがそこにある。

 競技空手は、もはやWKFの空手としてジャンルを確立しているのだから、それをどうこうする必要はない。伝統空手とは全くの別物である、と認識することが重要であろう。《略史》・・・・完