沖縄伝統空手の1千年(3)

第2章「空手の原型・《舞方》」説の浮上

(1)船越義珍の「田舎の男舞踊」説

 空手の始原についてのもう一つの視点は、空手の型の生成を巡る幾人かの先賢による探求である。それは地域に古から伝わる技芸の中に空手のルーツを求めようとする考察である。

 そうした文献として残るものの一つに、船越義珍本がある。空手の生成発展説、即ち沖縄空手の一般的な歴史把握として、船越が、その著・護身鍛錬「唐手術」で残した叙述に、その後の多くの説が依拠していることも言を俟たない。

 富名腰は、こう述べている。
 《・・・琉球の拳法、所謂「唐手」なるものは沖縄固有の武術であって、唐崇拝時代に支那に於いて、支那武術を稽古し、沖縄元来の手にこれを加味して比較研究の結果、その長所を採り、唐の字を冠せて「唐手」(からて)と命名し、いまのような健全なる発達を遂げたのではなかろうかと察せられる」

 沖縄には、まず古来の固有武術「手」があり、後世、唐国の武術と融合し発展した、という推論である。これがこの後、多くの研究者によって引用を繰り返され、定式化され、今日に踏襲されている空手起源説の一般的な考え方のベースになっている、とみていい。根拠が曖昧だ、として評価を控えることはたやすい。しかし、この説は、《手》の起源に目を向けさせる視点を定めている、といことにおいて重要である。これは見逃せない。伝統空手の立場からは、やはり《手=てぃ》の起源に迫りたい、と考えるのが自然な感覚ではないか、と考えられるからである。先述の伊波普猷、東恩納寛惇による「慶長以降の発祥・発達説」と異なる視点と研究の方向性が新たに登場する必然性もここにある。

 「グスクの戦い」の中から沖縄固有の武術が生まれたとする《7世紀から15世紀》のグスク時代に源流を探ろうとする考えや《舞方》に原型を見ようとする視点、《田舎の男舞踊》についても同様、始原論の位置からもっと深められる必要があるのではないか。

 《てぃ》の原型については、「田舎の祝賀の時、男の舞踊をすることがある。この舞踊の手が普通の舞方とは異なって、好くも唐手に似ている。是が今の唐手の前身で、沖縄元来の手ではないか、と思われる」というように、船越は、《舞方》とは別の《男の舞踊》に《手》の原型を見ようとしている。

 《てぃ》は、《てぃ》として自立して、その姿を残せなかったのであろうか。否、残っていた考える方が妥当であろう。だからこそ「男舞踊」に組み込まれて形を残した。というような捉え方が自然な流れ、と思える。しかし、それは次に見る《空手の原型は舞方》という捉え方と共通するかにも見えるが、両論は全く異なる知見なのではないか、と見る向きが多い。

(2)《空手の原形は舞方》という説

 近年の空手研究の大著「沖縄空手古武道事典」の主著者、多宮城繁氏は、空手の始原に関わる考察を深めている。その主要な論点を追ってみよう。

 まず、同氏の論稿について、その要所を記すことにする。
 氏の考察は「古伝技(手の原形)としての舞方」という表題を付している。

高宮城繁「古伝技(手の原形)としての舞方」

《沖縄の空手には武道空手、競技空手、健康空手、舞踊空手の4種類がある。

 舞踊空手は、武芸踊りとか武の舞と呼ばれ、・・・その祖形ともいえるようなものに戦前の「舞方」がある。「舞方」は、沖縄地方に伝承されてきた武芸踊りである。「舞方」とは、毛遊び、エイサー、祭り、祝座の場などで即興的に歌三味腺に合わせて踊る武芸踊りである。芸と実戦性をあわせ持つのが武芸踊りとしての「舞方」である。

 「舞方」の起源は不明である。“手”を歌舞音曲にのせて集大成したものという人もいるが、詳らかではない。首里から地方下りした士族の間で愛好されたもので彼らが修めた武芸を舞踊化し、それを地方に伝播したものだという。「舞方」には、蹴り技、突き技、受け技、腰の使い方、目線の配り方、足の捌き方等々空手を彷彿とさせる技が多々含まれている》

 この文脈から見えてくることは、舞方と空手との酷似性についての説明である。つまり、この酷似性に《手の原形》を見ているわけである。これは、空手の始原としての《手》の存在を単に前提的に語るのでなく現在的な「地方芸」の形態を探り出して、これに古伝技という規定性を与え、それによって遥か太古へ、と眼差しを飛翔させる構図になっている。これは果たして、太鼓に遡り<手>の始原に迫る視点とされるものだろうか。結局は「舞方の起源は不明である」として、そこから先への進展はない。

 同書による「舞方」の考察は、戦前北谷村に有ったこの地域固有の芸に対するものである。一部、その直接の見聞が下敷きとなっている。結局、今日においては、この舞方さえ継承するものがなく、ほとんど失伝したのも同然で、保存が求められる、との警鐘で考察を締めくくっている。

 ところで、この「舞方」に現れる<空手の技と酷似した技>を<手>の祖形と、高宮城氏は考えている。この<手>というのは、地方下りした首里士族が彼らの武術を舞踊化したものだというから、この時代は琉球王朝が崩壊した直後あたりのころと推測される。つまり、那覇手、首里手、泊手、と呼ばれていた<手>のこと、という見方も出てくる。

 これは≪舞方》が手(てぃ)の祖形≫なのではなく、既に、≪てぃ≫が舞方のベースになって、舞踊化している、ということなのではないのか。仮に、≪舞方=“てぃ”の祖形≫という図式が成り立つとすれば、≪舞方≫は、グスク時代に始原を有することになるが、グスクと舞方を関連付けた展開を見ることは出来ない。

 随って、此の《舞方原形説》には、少なからず無理がある、云うべきだろう。結局は、空手の始原との繋がりも有りそうでなさそうな形のまま収束する。

 なぜ、そこから先への展開が試みられなかったのだろうか。《舞方=手の原形》とする仮説の設定そのものに限界性がはらまれているからか。

 かくて空手の始原論としては、仮説的な位置付けに疑問を指し挟む余地を指摘する知見が少なくない。
 因みに、今日、伝統空手の頂点に位置する老師たちや各流派の指導者たちはどのように認識しているのだろうか。

 凡そ《舞方》は、首里士族が地域に移住し古来の祭事に影響を与えた、という考え方を採る人が多い。先にも触れたが、これは時代的には琉球王朝が解体され、3000人とも云われるリストラで首里士族が地方分散したころのことを論拠としている。これによって、侍の武が地域に溶け込んで神事と融合し、姿を変え、地域の祭事で演じられるようになった、とする認識である。文献考証はなく、口碑としてかなり一般に流布する。

 祭祀には舞が伴う。この舞に《てぃ》が組み込まれていった背景として、王朝崩壊を措く考え方はムリではない。舞方の中に溶け込んだ《手》が踊り手によって表出される、と見ているわけである。その表出した部分が《手》という認識になるのであろう。結局、いずれの説も、グスク時代に遡る始原論以上の卓説、とみることには無理があるように考えられる。