沖縄伝統空手の1千年(2)

第1章 空手の起源が曖昧な通説空手史

 文献、資料を渉猟することは歴史の謎に迫る科学的な出発点、とされている。しかし、その一方で、失われた時代への科学的な解明のカギは、すぐれて、鋭い推論・仮説に委ねられることで初めて、真実に迫ることが出来る、ということも、また確かである。

 あらためて、次のことを了解しておこう。空手史の一般論は既に述べたように《てぃ》と中国武術との融合によって発達した、というように定説化されているが、始原論は、《グスク時代、7世紀ごろから12世紀ごろには、既に「てぃ」が存在していた》という前述の説と、それより数百年も下る13、14世紀以降とする見方に分かれる。後者は、「からて」という呼称や術の形姿が一定の体系を以って伝承し始めたことが、空手の発祥を意味すると云うように論述するのが共通の方法だ。

 この略史では、琉球の三山統一に先立つグスク間における戦乱の世紀に発生した、とする説に留意している。そこから歴史を遡上していくことに興味を抱くからである。と云うのは、この説を辿り、空手は1千年も遥かな昔にルーツをもつ文化として伝統を紡ぎ発達、継承されてきたのではないか、と思考するのである。また、逆に言えば、その素朴な技は、余程その風土に適応していなければ萌芽し生き延びられない、とも考えられる。つまり風土と共にある固有な存在なのだ、考えるのである。

(1)沖縄に古来の固有武術はなかったか

 さて、先に紹介した《空手はグスク時代の戦いの中から誕生した》とする視点は、以下に見ていく《通説》への批判的な考察としてみることが出来る。沖縄伝統空手にとってルーツの問題は核心的なテーマであり、この仮説には、空手の起源に肉薄する強烈なまなざしがある。その対比において《通説》とされる諸説をみよう。

空手の発生は12世紀以降とする説

 空手のルーツに関する、従来の史的考察の諸説は、確定的な表現を避けるものが多い。このため《始原論なき空手史》ともいうべき傾向が共通する。そうした一例として、県教育委員会の『空手古武道基本調査報告書(平成6年)』は、次のような考え方に立っている。

 「沖縄は、琉球とよばれていた古い時代より、本土各県と違う独自の文化を形成してきました。これは、中国をはじめ東南アジアや日本、朝鮮などの国々と交流を持ち進んだ文化を積極的に取り入れる機会に恵まれたからです。このような中で空手道も発生し、発達してきました。」(略)「沖縄は12世紀ごろグスク時代という新しい時代に入ったと言われていますが、それまで狩猟を中心に生活しており、武術としての格闘術が存在しているとは考えられません。」

 要するに、ここで主張していることは、《空手の発生は12世紀以降》であり、それ以前は「狩猟時代だから武術は存在しない」ということである。しかし、この時代に先行して、既に農耕と定住の生活が、社会形成の基盤となっており、人々は単に集落を形成していたばかりではなく、その首領的な強者の下に支配される領地領民であった。彼らは互いに勢力拡大を図り、戦いを繰り返したのである。

「隋書流求国伝」に見る7世紀の琉球

 歴史書は、12世紀ごろより以前を《歴史の空白期》と呼び、琉球史は、この後から、活発な展開へとつながっている。しかし、7世紀には、『隋書流求国伝』をはじめとする幾つかの歴史書が琉球の姿を伝えており、『隋書』は、グスクを築き領地領民を支配する権力の存在を記述しているところが興味深い。

 これも『おもろ』にいう《按司》の登場を意味する、と見るかどうかで《歴史の空白》は、また必然的に違った形で見えてくる。
 《おもろ》は、琉球の島々の起こりについて、地上に降りた神によってつくられたのだ、と謳う。≪その際、一組の男女を住まわせ、二人の間から三男二女が生まれ、長男は王、二男は按司、三男は百姓、長女大君、次女は祝女の祖になった≫としている。

 地上に降りた神は<アマミキヨ>。そこは《知念むりぐすく》とされている。
 グスクは即ち按司の権力拠点であり、ここは戦いの術を打ち鍛える溶鉱炉であったのではないか。かくして前出の《てぃ》の由来に係る説は琉球固有の武術を7世紀から12世紀までには既に実戦の場に登場していた、と考えるのが妥当だろう、とみている。このように「てぃ」の発生、即ち空手の始原を捉えることが可能なのではないか、という視点を示している。

 もう一度「隋書流求国伝」にもどり、その頃の「流求」がどのような姿をしていたのか、見ることにしよう。
 『隋書』が書かれたのは、613年のことである。その中には、まず「流求」に幾つかの王国があり、「可老羊」という王がいたことが出てくる。また、妃の名が「多抜茶」ということもわっている。王国は、グスクを築き領地、領民を支配した、と記す。

 そして、軍隊を擁し刀、鉾、槍、など鉄製の武器もあったが、用を為さぬほど貧弱なものであったようだ。王国間の勢力争いは、今日で云えば喧嘩口論のようなもので、《てぃ》の研究書は、『皆殺しの戦いではなく、代表戦の形だった』としている。

 琉球の歴史書は一般に、7世紀の社会を狩猟時代として位置付けているが、既に、稲作が行なわれ、穀物類に合った土壌だ、と「隋書」は書く。製塩、酒造りの技術も存在した。築城技術にも優れ、三重の堀、三重の石垣を巡らしたグスクの内部、王の居室は絵画で飾られたとしている。

 同書は、隋の揚帝が「流求」を攻めたときの記録とされ、隋の軍隊は、グスクや村を焼き払い、引き揚げる際、男女1000人を拉致していった、というから、「流求」はすさまじい侵略に曝されたことであった。

 一方、他の研究には、「流求は福建の東、水行5日で到着す」とかガジュマルが茂っており、婦人は刺青をする、米麹で酒を造る、文字はなく時節を知るのは月の満ち欠けによる、と言ったような自然や風俗などの観点で捉えた研究もある。同じ『隋書』に対する接し方も、視点の置き方でかなり変わってくるところが興味深い。

 いづれにしても、琉球は既に7世紀ごろには狩猟社会から農耕社会に移行しつつあり、権力の登場によって激しい時代変化が始まっていたとみるべきだろう。『隋書』を通して、グスク時代を確認し、グスク間の戦いで《手》のルーツが形成されていった、と説くのは、頷けることであろう。

(2)「空手の源流・中国」説の登場

 前後するが、やがてグスクの強者たちの中から最強の按司が登場する。10世紀~12世紀ごろは、それぞれの勢力が次第に膨張し、縄張りを拡大しつつ、頂上へ上り詰めていく時代だ。そしてついに、浦添を中心とする中部圏に一大勢力を成すに至る。それを《中山》と呼び、ここに登場したのが最初の王統と云われる舜天王統であった。この中部勢力王統は、舜天王統ー英祖王統ー察土王統と200有余年に及ぶが、その末期、今帰仁を中心とする《北山》と島尻には《南山》が成立する。歴史に云う《三山鼎立時代》である。琉球の戦国時代とも云うべき激しい戦乱の時代へ向って行ったことは前にも触れた。

 三山は競い合って中国や東南アジアとの交易を展開した。中山に君臨する察度王は明王朝初代皇帝太祖に促されて1372年進貢する。これが琉球史の上でいう明との交易の初めだとされている。その後、琉球は中国をはじめとする東南アジア諸国との交易を盛んに展開するようになる。

 『空手古武道基本調査報告書』は、こうした時代背景を指して、「武術の面でもいろいろと影響を受けたことが予想される」としている。まさにそのとおりである。そこに《武術》は、既に存在したのであり、だから「影響を受けた」わけだが、果たしてその武術は何時の頃から存在したのであろうか。普通に考えれば、意識はそこへ向かうはずだが、「報告書」の文脈からは、『いつ』という空手の起源に迫ろうと意図するものは読み取れない。必然的に空手の中国伝来・発展説へと橋渡しされていく叙述とならざるを得ないわけで、従がって、空手の起源は曖昧なままに歴史を繋いでいく展開となっているところが、この「報告書」空手史の基本的な展開構造になっている。

「明末の進貢で空手は伝来」―伊波普猷

 この『報告書』は《空手の起源論》として、沖縄学の父として知られる伊波普猷の説、『をなり神の島』―琉球の武備を考察して<からて>発達に及ぶ-という論考を持ち出している伊波は、こう説く。

 「空手が発達するのは薩摩の琉球入り、即ち《慶長の役》以降である。<からて>は、武備の衰退と逆比例して発達したに違いない。<からて>はその名称の示す如く、支那伝来の拳法で、一時代前までは<たぅで>(一般的にはただ<手(てぃ)>)と云っていたが、<無手空手>(んなてからて)(てぶらの義)から類推して最近空手という字を宛てるようになった。・・身に寸鉄を帯びなくなった琉球人、わけても明末進貢の序に福建の柔遠駅(琉球館)に滞在して貿易に従事した連中が、護身術として持ち帰ったとみるのが穏当だろう」・・・・。

 要するに、伊波の知見は《たぅで=てぃ⇒唐手=からて⇒空手》だから中国伝来、という文脈での展開である。
伊波は、さらに、潮平親雲上からの聞き取りで土佐藩士戸部良熙の手になる『大島筆記』に依拠して、空手の渡来を説き、「武備志」に触れている。また、空手が慶長の役以降に発達した有力な証拠として<沖縄人と奄美大島諸島の人がする喧嘩の仕方の違い>を引き合いに、沖縄人が拳固で撞くようになったのも慶長の役以降、と主張している。

 慶長の役は1609年のことである。それ以前は、沖縄人も多分、奄美大島の人がやるように<拳固の下側面で擲(なぐる)る>やり方であったのだ、と述べている。そして、伊波の中国武術伝来説は、祖父が中国留学で武術を学び、拳法家としての戒めを語り残していることも根拠になっているようだ。

「中国語的な呼称から断定」―東恩納寛惇

 さらにもう一つ、報告書は、<からて>の発達を「慶長の役」以降とする説で、しばしば登場する東恩納寛惇説を挙げる。

 東恩納は強い調子で、こう主張する。「<からて>は、その種目の名称からして支那伝来のものである、と断言できる」と。空手の型名称が《中国語的》である、ということを根拠にした、《空手は中国から伝わった》とする説の代表的な見解である。これは、今日でも広範な認識として在る。たしかに上地流や剛柔流のように多くの型を中国から持ち帰ったものがあるのも事実だ。

 しかし、この両者とて、沖縄に《古来の武術“手”が伝わる》とされる前提と無縁ではないはずである。だが、東恩納寛惇はいきなり「所謂徒手空拳の武術が、沖縄に本来存在して居たか否かは、今俄かに即断できない」と、結論づけるのである。これは《空手は沖縄固有の武術である》とする共通の認識を真向うから否定する見解であり、疑問の多く残るところであろう。

 そもそも、沖縄伝統空手の固有性は、《てぃ》以前にまで遡ることに拠って成り立っているのであって、《てぃ》を明確に位置づけることなしに《沖縄固有の武術》の存在が考えられない、のも道理である。

 伊波と東恩納の両者の空手の発生、発達論に共通するのは、一つに、《空手は中国伝来の武術である》という観点。二つは、《琉球国の武備の衰退と逆比例して発達した》とする考えに立って観ていることである。

 琉球における禁武政策は、2度あった。一度目は尚真王(1476-1526年在位)の時。国中の武器が集められ王府に厳重保管された。2度目は慶長14年(1604年)の薩摩藩による武器携帯禁止通達である。しかし、王府は、国内の安定的な統治を意図して武器を集めた、と見るのが多くの研究者によって明らかとなっている。外的に備えるための禁武政策として空手を盛んにしたという見方を肯定する人はいないだろう。

 こうした通俗的な空手史観がベースとなり、近現代の多くの空手関係文献に採用され、誤った認識を広める結果をもたらしている。

 ここまで見てきたように、通説は、起源論を空手史の基点として据(す)えるのではなく、12世紀以降の近世・中国伝来説に比重を置いた発達論が主要な内容となっている。「空手は沖縄固有の文化」と云いつつも、ただ、それは単なる枕詞的に置かれているにすぎないのである。それゆえに、空手の源流を突き止める探求は依然、今後の課題として残され、源泉をグスク時代に求める説も含めて、さらに研究を深められることが求められている。

(3)中国伝来説を読み解くキーワード

 空手の起源を《てぃ》に求めるのか、「中国からの伝来」と見るのかは、ここまで繰り返し述べてきたように、核心的な問題である。通説が太古の沖縄固有武術の存在を措定しながら、その一方で《中国伝来武術との融合》が空手の源流であるという形で構成されてきたことも見たとおりである。そうすることによって、本来、解明されなければならない、ルーツとしての《てぃ》の由来は捨象され欠落すること、となる。

 しかし、それだからと云って、琉球武術が中国武術との《融合》によって中国武術から大きな影響を受け、飛躍的に発展した史実について、何ら否定するものとならないのも、また言を俟たない。

発展の歴史を単純に図示すると

《てぃ》の時代7~14世紀⇒
《てぃ》《中国武術》併存時代14~18世紀⇒
《てぃ》《唐手》の時代19~20世紀⇒
《空手の時代》20世紀~現代、
というようになろうか。

 むろん、これに異論を挟む説もある。日本の空手文献には、「既に(てぃ)は14世紀ごろから、中国武術に吸収されて、消滅した」という説もしばしば見受けられるが、論外である。

 しかしやはり、中国武術の伝来と《てぃ》との融合ということがなければ、やがて琉球武術が黄金期を築く、空手の時代は、到来しなかったのも確かだろう。そうした発展過程について、空手史で頻繁に登場する、キーワードを基に読み解く試みをしよう。

中国朝貢交易と冊封使

 琉球が中国との間で、正式な外交関係を結んだのは、中国・明の時代である。

 琉球はその頃、舜天王統から英祖王統へ続き、中山に察度王統が君臨し最強を誇っていたが、その末期には北山・南山の勢力が興り歴史に言う《三山時代》となり、戦国の世であった。

 察度は、逸早く明との交易に乗り出す。1372年、察度は弟・泰期を中国明王朝へ朝貢の使者に立て派遣した。これが朝貢の始まり。明の初代皇帝太祖が使者・楊載を送り察度に進貢を促したもので、歴史は、この使者の來琉から30余年の後、1404年に最初の冊封使がやってきた、と記している。こうして琉球王府は、中国との交易を活発化していく。

 冊封制度と朝貢貿易は尚巴志の第一尚氏王朝から尚円王に始まる第二尚氏王朝が滅びる尚泰王の時代、中国は清王朝時代まで続く。凡そ5百年の間、中国への進貢と琉球王の冊封が続けられ、23回に及ぶ冊封がなされた。

 その際、王府の使者や留学生や商人など、朝貢使節団のメンバーは、福州市の柔遠駅(琉球館)に長期滞留して活動した。彼らの中に中国拳法を学ぶ者もいたと推測することは何ら不思議ではない。

 他方、明の冊封使は、数百人の護衛兵を伴うのが普通だったようだ。正使、副使のほかに、文官、武官が付き従った。
 後年、「大嶋筆記」に公相君の高位で呼ばれる武官が登場するが、この高官は「組合術」の《手》を使う拳法家として紹介されている。(公相君については、さらに後述する。)

 首里手に伝わる「クーサンクー」の型は、この高官に由来するのではないかとも云われている。
 また、少林流の「型」《汪輯》は1683年に冊封正使とし來琉した同名の人物によって伝えられた、という説がある。(汪輯はその年、「使琉球雑録」を残した人物)

 このような冊封関係と朝貢往来が、琉球の武術に大きな影響を及ぼしたであろうことは、それだけでも、その客観性を容易に了解できるだろう。さらに、。進貢貿易と冊封は、植民地統治的な関係などではなく、庇護・恩恵的なもので南海の小国に過ぎない琉球王朝とって、実に有難いものであった。朝貢物よりも明・清から下賜されたり、交易で受け取る文物の方がはるかに多く、この交易が琉球王朝の繁栄を支えた。

 そうした庇護のもとに自由だった琉球は、この時代、中国だけでなく東南アジアをくまなく駆け巡り盛んに貿易を行った。その様子が「万国津梁の鐘銘文」(1454年尚泰久王が造らす)に、《・・・舟?を以って万国の津梁と為し異産至宝は十方刹に充満せり》とある。現代人は、銘文に刻まれた「万国津梁」の心を、いまや、世界の空手となった「琉球伝空手」の中に見出すことであろう。

閩人36姓による伝承説

 朝貢、冊封に加えて、挙げて措かなければならないキーワードとして「閩人36姓」の來琉がある。閩人というのは、福建は閩江下流に多く住む人々のことである。彼らは、明皇帝から琉球への下賜扱いとして送られてきた、という。察度王の朝貢から前後して來琉した彼らは、学者や技術者、陶芸家、文化芸能の関係者、航海技術専門家、書家、文書家、通訳など、すぐれた職能集団だった、と歴史は語っている。以後琉球の政治や産業、文化、教育などあらゆる分野で活躍し琉球王朝に絶大な影響を与えていくことになるが、この説とは別に、この時代、商売などの目的で來琉する福州人も多くいた。彼らは商都那覇の港近辺に集落を形成し、先述の閩人らと一体化して定住した。

 ちなみに、閩人36姓の末裔には、王府の中枢にまで上り詰めた政治家・蔡温や《てぃ》の達人と云われた謝那利山などが有名。この事実は、最初の来琉閩人やその後に続く人々の中に、すぐれた多くの拳法家がいただろうことの証と見ることができ、《閩人36姓》の来琉に伴う中国拳法伝来説の信憑性は高い、とする理解は一般的である。

 ところで琉球王府と密接なつながりで開かれた久米村にも、実は大きな浮き沈みがある。明時代の活発な朝貢貿易と王府の庇護をバックに栄えていた久米村は、15世紀から16世紀にかけて、貿易が衰退する時代があり、それに伴って凋落した。そこで、王府は貿易再興を図る狙いもあって、久米36姓への保護策と支援策を打ち出し再建に取り掛かる。

 当時、久米村は過疎状態にも等しく、36姓どころか、僅かに在家の数、6家を数えるまで落ち込んでいた。このため王府は首里や那覇の士族も引き入れ、新たに來琉した唐人たちも次々と戸籍編入し人口増に努めた。そしてさらに、身分保障や経済的な優遇措置を講じ、それによって往時の繁栄が戻った、と歴史は記す。このような変遷の中で中国拳法の授受もあった、と推論するのは、納得できる事であろうと諸賢は述べている。

 ここまで2つのキーワードは、云うならば、中国対琉球の政治・経済、文化的な関係を枠組みとして、中国拳法が伝来した、というものである。しかし、文物の交流伝承は、詰まるところ人間の介在が特定されて、納得のいく結論に落ち着くはずである。このため、空手の先達や大家、研究者は、いったい「誰が中国拳法を、いつの時代に持ち込んだのか」ということに、深い関心を向けてきたが、この試みは、十分な資料の発掘を沖縄の過酷な歴史が阻んでいることによって、殆ど解明されていない。先に少し触れたが、ここで今一度《公相君》に目を向けよう。彼は、中国武術の琉球伝人の中で最も目立つ人物の一人。姓名は不明だが《公相君》と敬称される高位の官職にある武官だった。

 首里手の型「クーサンクー」は、これに由来する、という説があり、どう繋がるのか、あるいは繋がりはないのか、みていこう。

「公相君」ってなんだ?

 少林流・小林流系に伝わる「クーサンクー」ほど、物語に彩られた『型』も少ないのではないだろうか。型の多くが、由来の物語を殆ど持っていない中で、「クーサンクー」が、際立った存在に見えるのは、それが劇的な形で歴史文献に登場してきたからだろう。

 《公相君》は、土佐の儒臣戸部良?が遺した『大嶋筆記』に初めて出てくる。この中で、《組合術》という《手》を公相君が使い、大力の男を瞬時にして倒した、と書いている。戸部は、琉球から薩摩へ貢納に向かう使者の櫂船が嵐にあって遭難し、土佐藩の救護を受けたとき、その時の使者、潮平親雲上盛成から琉球の様子を聞き書きして残した。この記録は3部から成り、その第3部「雑話集」の中に《公相君》《組合術ノ手》は現れる。

 貢納櫂船が遭難したのは1762(宝暦12年)のこと。冊封使付の武官として《公相君》が来琉したのは1756年のことで、普通、冊封使は半年から1年滞在したとされているから、潮平親雲上は、この間(1757か1758年ごろまで)に、公相君による《組合術ノ手》を見る機会に遭遇した、ということになろう。彼が語ったのは、遭難する5年前に彼が目撃した出来事である。潮平がその術をどのような場所で、どのような形で見る稀有な歴史的な瞬間に遭遇したのかは、記録にない。おそらくは、公相君という身分役柄から、彼は術の普及状況や伝承具合のチェック、あるいは指導などを行っていたのかもしれない。

 ときに琉球王の御前で冊封使や王府要人が居並ぶ宴席の余興として公相君と件の大男による組手が行われたとして、その末席に潮平がいたと想像できないこともない。潮平は、その術を目の当たりにして、あまりの凄さに驚嘆を禁じ得なかったであろう。その様子が「大島筆記」の行間から伝わってくる。

 しかし、公相君が、彼の任務の一つとして<唐の術>が、どれほど定着しているかを調べたのではないか、という説はあるものの、証明する資料はない。とは言え、「クーサンクー」という首里手の型が、完璧とも言える美的構造を備えて今に伝わっていることを考えれば、あの時代すでに一定の念入りな指導 伝承がなされていた、と見ることも出来よう。

 因みに《公相君》とは、元もと人名でもなければ、術の型名でもない。高位の官吏(ここでは武官)に関する美称であることが「筆記」に記されているだけで《クーサンクー>という型名との繋がりも未だ詳らかではない。

「武備志」は何を伝えたか

 もう一つ「武備志載スル術」という記述のあることが注目される。知られるように「武備志」は、一般的に中国明代、1621年、茅元儀が編集した総合的な軍事戦略書を指す。全240巻、200余万字、738図を収め、「兵訣評」「戦略考」「陳練制」「軍資乗」「占度載」の5部から成る膨大な兵書であるが、長い期間、沖縄に伝わる『武備志』と混同されていた、という経緯がある。

 近年、渡嘉敷唯賢氏の精力的な中国武術の調査、研究によって那覇手のルーツに係わる文献として受け継がれている、所謂、『沖縄伝武備志』との違いが分かってきた。

 この『沖縄伝武備志』がいつごろ編纂されたものか、沖縄に伝えたのは誰か。宮城長順だという説を渡嘉敷氏は採る。それは多くの共通理解ともなっている。

 宮城は大正4年に渡中し、1年間中国武術の調査研究を行った。その際持ち帰ったのが『沖縄伝武備志』なのだという。福建省永春県に伝わる「永春白鶴拳」の古拳譜(拳論)で1800年代初期に編纂されたことやその著者についても渡嘉敷氏は突きとめている。四半世紀に近い中国調査研究の結果、渡嘉敷氏は「沖縄伝武備志の著者は、少林羅漢拳と鳴鶴拳の名手・潘嶼八である」との結論に至った。また、この潘嶼八は、那覇手の始祖東恩納寛量に鳴鶴拳を伝えたルールーコーの師である、というルーツの解明にまで成功している。

 このような経緯とは別に「沖縄伝武備志」は同じころ、那覇東町で茶商を営んでいた呉賢貴という福建省?候県出身の拳法家によって伝えられた、という話も伝わる。呉賢貴は、那覇で茶商の傍ら「三戦」と「ネーパイ」「チュウコン」の型を沖縄に伝えたとされる武人で、彼が所持していた武備志は鳴鶴拳であったことも、呉賢貴の縁者に対する渡嘉敷氏の確認調査で明らかにされた。

 ところで、この《武備志》と《公相君》の関連は、やや微妙である。つまり、「武備志載スル拳ノ法」は、沖縄伝武備志を指すのかということ。そうではなく茅元儀編纂になる『武備志』であるとなれば、兵法・戦略論の大著とされる茅元儀『武備志』には、拳法の技術論もどこかに含まれているのではないか、という別の見方が出てくるかも知れない。

 そもそも『沖縄伝武備志』は那覇手の伝書であり、「クーサンクー」の型が現れないのは当然である。『沖縄伝武備志』は1800年代に編纂されたとみられており、他方、公相君の來流は1756年のこと。このころの話として「武備志載スル所の拳ノ法」が「大島筆記」に登場してくる。これは『沖縄伝武備志』より50年も遡ることになる。此のことからも「大島筆記」載する『武備志』云々は、『沖縄伝武備志』でないことが明らかとなる。

 そして、この「クーサンクー」の型について、伝承経路がどうなのかは、まったく不明である。公相君なる武官から北谷屋良雲上に伝わる、とされているが、北谷屋良雲上(利導)の父は利元と云いう南京人で鹿児島に渡り薩摩官吏になった人物。帰化して琉球王府の高級士族に列した。屋良は、その5世に連なり1740年、父・利元35歳の時に生まれた。利元は1705年、75歳で没、利導40歳のときだ。

 一方、公相君の来流は1756年とあるから利導は、16歳である。とすると、北谷屋良は、16~7歳ごろに公相君から中国武術の手ほどきを受けたのであろうか。

 屋良家は北谷間切屋良の尚家牧原を管理し、地頭の任にあったが、利導は、明治政府による廃藩置県を挟んで、世襲の仕来りに沿って、牧原を管理しながら《唐手》を教えていたのだろうか。

 首里手の最高型とされる「クーサンクー」は、どうやら《南京人由来》とでも言えそうだが、北谷屋良の父・李元がこれを伝えたという記録はない。

 やや長くなるが史実としてよく、引き合いにされるので、今一度「大嶋筆記」の当該部分を紹介する。
 「一先年組合術(良?謂武備志載スル所ノ拳ノ法トキコユ)ノ手トシテ本唐ヨリ公相君(是ハ称美ノ号ナル由也)弟子ヲ数々ツレ渡レリ 其ワザ左右ノ手ノ内何分一ツハ乳ノ方ヲオサエ片手ニテ ワザヲシ扨足ヨクキカスル術也」神痩タ弱々トシタル人デアリシガ大力ノ者無理ニ取付タヲ其儘倒シタル事ナトアリシナリ」

 このように、中国拳法の伝来は、特定の伝者によるケースは特異で、多くの不明な部分を含んでいる。《てぃ》に影響を与えた中国武術家として、公相君と汪棹揖、陳元賽、はよく引き合いに出されるが、それ以前に《てぃ》は琉球国で確固たる位置を占めており、ベースはやはり《てぃ》であったという説もある。説得力のある説と言えそうだ。対比して、冊封使や?人36姓による伝来説は、総体的な形として制度や中琉両国の外交関係、文化・交易という社会的な背景があり、伝来の史実として確実視されている。